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前列左 主人、右 野田俊作夫妻
三月の終りには、ボーナスが出ると言う。役所の人が来て饒舌つていたから、毎月のように貯金を引出して暮らさねばならない私にとって、ボーナスは本当に待たれるものであった。いくら出るのだろう。しかしそれも又、貯金しなければならないとすれば佗しい。しかしやっぱり期待していた。
三月の終りの風の強い日であった。役所から帰って来た主人が、之から池袋の要町へ行くと言った。用も無いのに私も連れて行くと言うのは、どういう訳か私はいぶかしく思った。沼袋から西武線で高田の馬場へ、其処から省線に乗り替えし池袋に着いた。其処から歩くのだと言う。乗り物の無い所だから、ひどく遠く感じた。高橋さんという役所の人だと言う。下駄の音が春まだ浅いつめたい夜空に響いた。
高橋さんのお宅は、奥様と二人暮しらしくお子さんが居る様には見えなかった。さあさあと招じ入れられると、主人はポケットから封筒を取り出すと、
「本当に有難うございました」
と高橋さんに差し出した。
「本当にいいのですか、あとでもいいのですよ」
高橋さんは主人に言うと今度は私の顔を見てにっこりされた。其処で私は、はたと思いあたった。ボーナス、なのだ。結婚にあたって、借りたお金らしい。それを最初のボーナスで返しに来たのだ。そう言う事だったのか私は血の気が引くのを覚えた。
いいえ、大丈夫です。そして助かりました、有難うございました。と主人はお礼をのベた。あわれ、かくしてボーナスは夢として消えた。私の手についに渡らなかった。