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仁士のお宮参りの日
昭和十九年も終りの頃であったろうか。兄夫婦の住んでいた家へ引越す事になった。私は、其の頃一寸様子がおかしくて、どうも二人目を妊娠している様な気がした。それで兄の家の引越しも手伝えない有様であった。
今度は、私共が引越す番で、人夫が集まって、さっさと掃除も片付けもしてくれた。前の家よりかなり広かったから、帰ってあまり時も立っていない頃だったし随分と面くらふ事が多かった。人夫用の米も、味噌も、馬鈴薯も、玉葱も、醤油も沢山来て、配給しても猶、余る程あった。誰かが聞きつけてもらいに来ても、主人は絶対に横流しなどしない人であった。当て来んで来る親戚の者も、がっかりして、憎まれ口を聞く程だった。配給の米は家では一切使わなかったから、私は長男を行きは乳母車に乗せ、三里先の農家まで、買い出しに出かけた。
お隣の娘さんで、話しながら、海沿いの細い道を歩くのは大変だったが、着くと、幾許かの品物を分けてくれて、腹がへったろうから、飯を食べて行けとお腹一杯、白い飯を御馳走になった。純粋ないい人達で、我々に同情してくれて有難かった。帰りは尚志をおぶって、乳母車を二人でかわりがわりに押して帰るのは、つらかったけれど、食糧が手に入るよろこびにはかえられなかった。主人は、それを何時も嫌な顔をして横目で見たが、一言も言わなかった。そうでもしなければ飢えて予う程の食料の配給だった。主食の米は僅かだし、いも、玉蜀タンメン、コーリャン、大豆などが、主食として配給になった。それも遅配が多くて、人々の目は食べ物の事ばかりにキョロ、キョロ動いた。タンメンは、うどん汁として食べるには、引がなかったし、小麦粉のすいとんは、だしが無いから如何とも不味かった。でも皆、何でもよかった。お腹が一杯になれば、いづれ日本が勝つ日まで、我慢をしたのであった。肉や魚の配給もあるにはあったが、ほんの時々で、佗しかった。
仕事はやり切れない程あった。防空壕がその主な仕事であったから、そろそろ始まった本土空襲に備えて、忙しかった。配給で酒でも入れば、人夫達に振舞う人だったから、皆からとても大事にされた。ダンゴウなどと云う言葉を知ったのもその頃であった。