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何処よりも早く家を建てられたのは、やはり商売柄といってよかった。小さいけれど、石屋根に漆喰壁の本建築、瓦は焼け瓦を拾い集めて来た。
二十年十月三十日完成、奥山さんも同居して、五人家族、風呂も造った。焼けボックイで燃料は困らなかった。
生きて来た。という喜びが、不自由な生活の中にも燃えた。
広島で、長崎で原子爆弾の犠牲になって大勢の人が亡くなったけれど、幸か、不幸か我々は生かされて来た。
戦前、金山が国家命令で閉鎖されたので、宮崎の須木の江上の父の所有の金山から、横浜ゴムに転勤して行く時一晩泊ってくれた須藤さん夫妻も、東京の親戚も行方は全くつかめなかった。たけ子さんが死んだと、たけ子さんのお母さんが知らせてくれたのは、其の頃であった。結核が昂じて、寝たきりになっても、私が戦災に会った事だろうとしきりに心配してくれた由、遺品の着物を届けて下さった。出征した大麻さんの行方も知らず、必ず帰ると信じていたと言う。私はかけがえのない友を亡って泣いた。友達との交際をきらった主人も、そうかーとつぶやいて黙って了った。あとで、大麻さんも中支で戦死されたと聞いたが、たけ子さんの生家も焼けて了って、訪ねる宛もなく、あれから一度も墓参すら出来ない。熊本の方に手を会わせて、冥福を祈るばかりである。
焼け跡に畑を造るべく、朝から忙しいかった。たっぷり五百坪はあったから、冬に向かって作るものも少く、耕して麦を播いた。土は小さく砕いてふるった。加里肥料がたっぶりあって、黒い土であった。種蒔きの春が待たれた。
忽ち瓦礫の山も出来た。奥山さんが園芸主任、彼はきちょうめんで、何事もきっちりせねばならぬ性格なので、私は気苦労が耐えなかった。