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昭和二十五年十月一日、汽車の混み様は、何と言っていいだろう。乗れただけが幸福だった。私は正威を抱いてほんの少しの荷物をかばいながら、上の二人の子が立ったまま居るのを哀れと思ったけれど、どうしようもない。それでもお年寄りのお婆さんの方が、ほんの腰を入れるだけ空けて仁士を座らせて下さった。
尚志は席の中に新聞紙をひいて、座った。座られた人は足を出せなくなって嫌な顔をした。何しろ博多から、二十余時間かかった時代だから、覚悟の上とは言へ、つらいものであった。
子供達はすぐ眠ってしまった。仁士も座らせてくれたおばあさんは、まるで孫をかばう様に、抱きかかえてくれた。
人情は紙のように薄い時代だったけれど、失意のドン底にあった私には、手を合わせておがみたい心境であった。
正威も眠ってしまった。私は、汽車のひじ掛けにもたれて少し間があったので、しゃがんで正威を見ていた。
何も知らぬ子供達、親の巻添いをくって、こんな旅に親子四人、いづれ思い出は薄れてゆくだろうけれど、こんな思い出が一生残っていじましい人生を送らせてはならない。明日は何が待っているであろう。ほんの少しでもいいこの子達に幸福な日々を与えてください。自分の受けた運命は甘んじで受けよう。私はまだ、三十五才の若さが残っている。
お手洗いにも録に行かれない。こんな私達を皆、うさんくさそうに眺めている。世の中が少し落ち着きかけて来ている頃だから、戦後とはいくらか異うだろう。何処が何処の駅やら、人が多すぎて分からない。それでも私も、うとうと寝入ったらしい。もう借金取りに、すごまれる事もない、それが一番の安吐であった。我武者、と言へばそれまでだが、借金取りを相手に凄む勇気はない。石をもて追われる、如く逃げて来た弱虫だ。
京都に着いたらしい。三人前の席が空いた。一人の若い男が、自分の横に仁士と正威を座らせてくれた。私は尚志と二人、固いおむすびを食べた。
若い男は、汽車弁を開けると、おからのお稲荷さんが入っている。子供達に、おあがりと差出してくれる。何と優しい人だったろう。
私には、学生というより役人風に見えた。沿岸の景色の説明を子供達にしてくれて、豊橋で降りて行かれた。あらかたの察しはついたと見えて
「元気で頑張ってください」
と私に言ってくれて、子供達の頭をそれぞれなでながら、サヨナラと子供達とも手を握り合って別れていった。
あの時七才だった尚志がもう四十四才になる。人の情の有難さを、覚えているだろうか。そんな人間になって欲しいと、私は何時も思っているのだが……
東京へは夕刻着いた。主人と、友人の石田さん、吉原さん、親子五人でころがり込んでゆく新谷さんが迎えてくれた。十月二日になっていた。着いた、着いた。兎に角ついた。涙があふれるのを拭き拭き
「よく来た、よく来た」となぐさめられた。
石田さんは、奥さんはまるで魚の腐ったような顔色をしていられると、驚かれた。
主人は、私に片手を出して「持って来たんだろうネ」と言った。瞬間私は血の凍るような思いをして主人に背を向けた。