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おかしな事に、バラックは一向に棟上げする様子がなかった。些少といえど私達にとっては、かけがえもないのだから、毎日不安でたまらなかった。
伊藤町での七人の暮らしと云ったら云いようがない。
「お姉さん、こんなおかずで栄養が足りますか」
と義弟から嫌味を云われても、ご免なさいと詫びる外なかった。つらい、毎日だった。何しろ二人の面倒を見ると広言した主人だから、今更とは云え義弟達には全く申訳が立たない。今もって胸が痛む思い出である。
山形から、本当に思いがけなく、須藤さんから便りがあった。大牟田の父に問い合わせやっと連絡が取れたという事だった。まだまだ、ラジオは尋ね人で連絡が取れた話も多かったから、須藤さんが大牟田に問い合わせなかったら、永久に分からなかったかも知れない。
横浜ゴムで働いているうち、同僚と山形市でハム会社を作っている由。東北出身だから、やはり東北の方へ帰っていったと見える。文面は、どうしているかとしきりに案じてくれて、主人に山形に一度来てほしいとあった。主人も会いたいに違いなかったけれど、山形までゆくめどが着く筈もない。