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夢の様な歳月が流れた。と言えば、平坦な結婚生活を思わせるのだが、私達はあまり起伏が激し過ぎて、一つの事にぶつかり、それを解決すれば又、新しい難事が待ちかまえていて、心身共にすりへらしながら徒に年を重ねて来た。兎に角、それでも私達は呆れるような、したたかさを持ち合わせていて、何とかやり過ごして来た。
親子五人、さまよいながら、神仏の加謹、人様の情のおかげで此処よで辿り着いたという感じであった。
粗末だか、家を持ち、子供も最高の教育を受けさせてやれた。かなり我々の身体は蝕まれているけれど、現実に生きている。主人は、事々に、有難いことだ、感謝を忘れてはならぬ、と言う。自分が選んだ結婚生活だから仕方がないと言ってしまえばそれまでだが、他の人と比べたら雲泥の差であった。
爪に火を点す生活を余儀なくされた。子供達から「けち母さん」と云われ、崩壊寸前の家庭を支えて来た。主人も辛かったろうが、私も辛かった。
人が羨ましかった。その日の糧で心を痛める事がどれ程辛い事か。
生活保護を受けたら、とまで云われた。プライトがそれを赦さなかった。
貧しくても、鈍するな、と、主人はうそぶくけれど、衣食足って礼節を知る。
ぎりぎりの生活の綱渡りであった。
しかしその綱も、乗り切って来たではないか、私にはそれが嬉しかった。
ボロを着ても、心は錦、主人はあくまで理想主義者である。
〇一万花堂が、どんなに辛くても、じたばたするな、必すいゝ日が来る、と云ってくれた言葉が励みになった。
そして結婚二十五年目、俗に云う銀婚式を迎えた。
昭和四十一年である。