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健が二つの九月、尚志一家は札幌に転勤する事になった。夏に向かってならいい所であるが、十月になればもう随分と寒い。まして小さな子連れの北海道は辛かろうが、社命とあらば致し方もない。可愛いい盛りの健を羽田に送って、毎週のように抱けた孫に今度は何時会えるかと淋しかった。
正威は相変わらず就職もしようとせず稽古にばかり出掛けるので主人は怒っていた。私も内心気が気ではないのだ。
青木さんが、伊良湖合宿に正威を語った。名目は、合気道の先生という事だそうだ。先生などとは、とんでもないと、主人も私もなじったが、本人は聞き入れてくれないで、とうとう行ってしまった。
上の二人の子は、何という事なく就職したから、正威も当然家の事情は知っている事だし、就職するものと思っていた。が手強い。頑として聞こうとはしない。伊良湖の合宿から帰って来てからは、学校の合気道の稽古には出ず、青木さんの稽古ばかりしている様子で、困ったな、と思った。
ロンドンから原田満典さんが帰って来るという。昭和二十九年にプラジルに渡ったから、かれこれ十五・六年ぶりの帰国である。あの時は、柳沢さんがまだ小さい大策ちゃんを抱いて、主人と横浜埠頭に送った。あの人は大きな希望を持ってサンパウロの土を踏んだ筈だ。切角の銀行を辞めてしまって、空手の指導に踏切って、主人は、そう決めたなら仕方が無いと、事細かに郵便で稽古をつけた。幾往復、一冊の本が出来上っている程の枚数であった。
書く事に致って物ぐさの主人が、よくもまあ、と思う程、書き送った。それが、どういう事情か、友人の招待でロンドンに旅した事で、再びブラジルには帰れなくなった。そのあたりの事は詳しい事は分かってはいない。ただ、留守の間に、稽古人が散って了ったのは事実の様である。食うか、食われるか、この世界にもこの事実は否めない様だ。
今はロンドンで空手を教えている。
主人も心待ちしている様子であった。帰国して、馬込に現れた原田さんは、昔と少し変わって見えた。之は私のひか目かも知れない。
何だか、少し横柄な感じを受けた。
何だか昔の原田さんでは無い。長年外国暮らしをしていると、あんな風に日本人放れがするものだろうか、と始めは解釈した。
原田さんにして見れば、あれも、之れも、と主人に訴えたかったに違いない。元来あまり大物を云う人でなかったから、それを一度に話そうとする所に無理があった。彼はお土産にウイスキーを持って来たが、残念な事にもう主人はお酒を飲めない。彼はチビリ、チビリと手酌でそれを飲みながら、話し始めた。