それから私は三年間通院をしながら治療した。つらい毎日だった。満三年たって結核菌が「痕跡」にんって、あと二年この状態が続けば結婚してもいいでしょう、と先生が「よかったねー」といって下さった。
 私の青春時代は闘病で終りそうであった。伯父や伯母にきがねをして、明るく青春を過ごす友人が羨ましかった。校庭で跳び廻っていた頃の自分がいとほしかった。私に結婚を申し込んでくれた人へも、病ゆえあきら貰う事も度々だった。それでもいいと言う人も、最後の段階になると、腰ごみし、又若い医師が自分が必ず治してみせるから、自分と暮らそうと言ってくれたが、間もなく軍医召集がかかり、マレーシャのジョホール水道から再び還ってはこなかった。そして医師から結婚してもいいと言はれた時、もう二十三才も終ろうとしていた。

すずらん

すずらん
ユリ科の多年生植物
高山や高い地方にはえる。初夏に白いすずの形の小花をひらく。
谷間のひめゆり。きみかげそう。

 「結婚したくなかったらしなくてもいいんだよ」
 「お前が一生涯暮らせるくらいのものは残してあるよ」と伯父は言って慰めてくれた。
 私には私のプライドがあり、この人と言う人の現れる迄は結婚すまいと、かたくなに縁談を断って少し高望みとも言われた。しかし私の信念はかたく、何時かそうゆう人にめぐり会えると信じていたが、伯父夫婦に何時迄も世話になるのもつらく、独立して暮らしたいと心の中では思い続けていた。そしてその機会をねらっていた。自分を安売りはすまい、私はなんて傲慢な女だったろう。
 住吉の家によばれた翌日、Nさんがやって来て、
 「昨日はすみませんでした。あの御夫婦は、江上さんですタイ、お嬢さんバえろう気に入んなすって、ぜひ息子の嫁にと言って今日は来ましたタイ」とびっくりする様な縁談を持ち込んで来た。
 伯父夫婦は黙ってしまった。何しろ当時の江上家は飛ぶ鳥を落とすいきおいで、早稲田に通っている三人の息子に三百円を送っていると街中のうわさだった。百円は当時でも、普通のサラリーマンでも高給で東大出の初任給が七十円位だったろうか。いまはその二男も参謀本部に勤めている由、その人にと、Nさんは翌日も翌日も朝早くから矢の催促である。
 私はすっかり困ってしまった、二十四才の夏であった。

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