君影草 第1話 序章

 その日、私はお茶の御稽古の日で、出掛けるために、紫の銘仙に紅朱の帯を締めて足袋をはこうとしていた。
 「一寸 住吉の家へ寄ってゲナ」伯母の言葉に、あら? といぶかしく思いながら、たいして気にならず、袱紗を胸にしまふと、急ぎ足で、親戚の住吉の家の敷居をまたいだ。伯父の知り合いで世話好きのNさんが出て来て「お待ちかねタイ、さあさ、こっちへ」と言う。奥の座敷に入ると其処に年配の紳士とその夫人らしい小柄なふくよかなひとが座っている。私はおやっ?と思ひながら、「いらっしゃいませ」と頭を下げると、二人はにこにこしながら「お手間をとらせました」と言う。それから名前や、お稽古のことや、学校の事を聞かれた。どうやら私は品定めをされているのだな、と考えるのに時間はかからなかった。ともかく其処は適当に答えて、お茶のお稽古ですからと立ち上がった。

昭和16年当時

昭和16年当時

 一体誰だろうと考えて、はたと思ひ当たることがあった。二・三日前Nさんに連れられて一人の男性が来たとの事、私は丁度留守だったので出直しますと帰っていったそうである。その人の両親かもしれない、と思った。
 私は小さい時、父を亡くし又母もその後再婚したから、東京の小学校を六年になった許りで、大牟田の母の兄夫婦、すなわち伯父の家に引き取られていった。肉親に縁の薄い娘であった。
 伯父夫婦が割合いい人達で、県立の女学校へ通はして貰ったし、何不自由なく育ててくれた。私は父亡き後、母が苦労した事を見ていたから、女も仕事を持って独立すべきだと常々考えもし、出来れば女医になりたいと思っていた。
 卒業も近くなると、東京の女子医専から推薦があれば入学できると言うので、伯父夫婦に頼んだがどうしても赦してくれない。
 学校から先生が来て誘めてくれたが、駄目だった。全く惜しいと言われたが、女は家庭に入るのが一番よいと伯父夫婦はいった。
 女学校時代はとても丈夫で、陸上部に入って、試合にも良く出た。ハンドボール投げは県の大会でも入賞した。
 卒業後家に籠もりお稽古事をしながら悶々と暮らしている内に少し身体がおかしくなった。当時、陸上部の友人がバタバタと肺病になり若く死んで行った。環境が変わり過ぎたのであった。私もあまりはかばかしくないので、検査してもらったところ尿から結核菌が出ている事が分かり、本当に驚いた。十八才の時であった。友人の紹介で熊本医大で検査の結果、腎臓結核にかかっている事が分かった。

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