「江上家では、茂さんが一番よかですタイ」と言うばかり、ねばり抜かれて伯父たちも少々辟易し始めていた。日中戦争も酣で、殆どの人が招集され、銃後に残された男性とは何か理由がある筈だった。仲人口には乗らないぞ、と私は思った。友人に頼んで、彼の事を調べてもらった。友人は市会議員に親しい人がいて、江上の父は永く市会議員を務めていたから、友人は輪郭はつかんで来てくれた。三池中学から早稲田第二高等学院に入学し、その後早稲田大学を卒業して、一度も大牟田に帰らず、現在、参謀本部に文官として勤めている由、人格その他の事は何も分らないとの事、私の知りたいのは、その人柄である。少々の交際の期間が欲しい。それでなくては自分があまり可愛そうだと思ふ。顔も見ないで、顔は良いに越した事はないが、人柄が良ければ赦せる気がする。私は背が高いから小さい人は困る。でもそれも人柄とは無関係だと思ふ。永い間、親の無く淋しく育った私には、人間を見る目は、ある程度持っていた。果して彼が私を幸せにしてくれるといふ保証は何も無いのだ。伯父達はつひに陥落してしまった。よすぎる縁談だけれど、それだけ望まれるなら、お前の気持一つだ などと言ふ始めていた。一度会はせてください と言っても、軍務多忙で休暇が降りない由、先日は陸軍熊本幼年学校へ出張した帰りに一寸寄った由で、すく帰って了ったのだそうだ。当時は親の決めた縁談で結婚したり、写真を置いて結婚式を挙げたり、又花嫁一人、知らぬ人の許へ嫁いで大陸に渡るといふケースは多かった。伯父がその気になると、私はのんびりとして居られなくなった。私は自分を随分大人と思っていたが、やはりとまどいを感じる娘ではあった。之以上は伯父達の世話になる事も心苦しいし、と言ってあまりに無謀なことではある。心は大揺れに揺れて、食べ物も喉を通らなくなって了ったが、自分の路を展くには之が一轉機になるかも知れないと思った。生涯の伴侶を私は幻の人の中に置いてみようと思った。結婚生活は未知の世界であるけれど、私の生きる未知は之より他に無いのかも知れない。この結婚を私の努力で悔いのないものにしたい、そう考へて私は賭けた。自分に賭けた。

 面目をほどこしたNさんは、江上家へこの吉報を持って馳けて行った。吉日を選んで、婚約の酒肴が運ばれた。我が家は俄に多忙になった。
 衣料品も米も、燃料もすべて配給制であったから、衣料切符をあちらこちらに頼んで、布団も衣裳も作らねばならなかった。
 ある夜、憲兵が二人私を尋ねて来た。応接間に上がって貰ふと、じろじろと私を見ながら質問を始めた。すべて調べ上げて来ていた。親戚の事もすべて調査済みであった。一方的で私の尋ねる事には何一つ答へてくれなかった。しかし之で私はかへって安心した。調べられる以上、先方の身分のたしかさが分かる様な気がしたのであった。
 蒲団が出来、白無垢の結婚衣装が出来て打掛の裏に真紅の羽二重がつけられ美しかったが、式の日には、二転、三転として定まらなかった。12月には結納もとりかはし、私は自分一人の戸籍を廃家する為に廃家届を出した。妹は伯父夫婦の養女になっていたし、何百年か続いた江戸っ子も父の代で終る事になった。太平洋戦争で、又休暇が取れず、挙式は昭和17年にずれ込む公算が多くなった。こう振り廻されて、私も腹が立ったが、あきらめるより仕方なかった。ところが年内に式を挙げたいと言ふたっての先方の希望で、12月30日挙式と言ふ事になった。暮と正月と結婚式、まるで、坩堝に入れかき回されたみたいな或る日
 「花婿が帰って来ましたバイ」
 仲人がうわずった声でとび込んで来た時、あっとうとうと私はむしゃぶるいをした。

1

2

最近の記事

PAGE TOP